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2026年10月16日 更新
Batlike 特集・独自解説

竹鶴政孝の真実|なぜ彼はサントリーを去り余市でニッカを創ったか

目次
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    黄金色に輝く琥珀色の液体をグラスに注ぎ、立ち上る重厚なスモーキーフレーバーを嗜むとき、私たちは一人の男の凄絶な執念に触れることになります。「日本のウイスキーの父」と称される竹鶴政孝(たけつる まさたか)。彼が今なお語り継がれる理由は、単に日本で初めて本物のスコッチウイスキー造りを成功させた開拓者だからというだけではありません。大正時代に単身スコットランドへ渡り、本場の技術を盗み、愛する英国人女性を連れ帰り、そして巨大資本と対立してまで己の理想郷を北の大地に築き上げた、壮絶なまでの反骨精神と職人哲学にあります。

    NHK連続テレビ小説『マッサン』のモデルとして広く大衆に知られることとなった竹鶴政孝ですが、ドラマの枠組み画では描ききれなかったビジネスの泥臭い現実や、サントリー創業者・鳥井信治郎との真の力関係、そして命がけのウイスキー事業を支えた妻リタの知られざる苦悶など、語られるべき真実は今も色褪せていません。世界中でジャパニーズウイスキーの価値が高騰し続ける現代だからこそ、原点である竹鶴政孝の足跡を改めて検証します。

    📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
    • 要点1:造り酒屋の三男からスコットランドへ単身留学し、門外不出の製法を記録した2冊の「竹鶴ノート」が日本のウイスキー産業の設計図となった。
    • 要点2:寿屋(現サントリー)鳥井信治郎との決別は「日本人の嗜好に合わせるブレンド戦略」と「本場スコッチの本格派志向」という哲学の違いが生んだ必然の分岐点だった。
    • 要点3:北海道・余市蒸溜所で創業した「大日本果汁」はリンゴジュースで糊口をしのぎ、やがて世界最高峰の評価を受けるニッカウヰスキーへと結実した。

    【生い立ちとスコッチ留学】酒蔵の三男坊が持ち帰った2冊の伝説的ノート

    竹 鶴 政孝の関連写真・ビジュアル
    【画像】竹 鶴 政孝 関連ショット

    竹鶴政孝のウイスキーへの情熱は、その生い立ちと深く結びついています。1894年(明治27年)、広島県賀茂郡竹原町(現・竹原市)にある江戸時代中期創業の造り酒屋「竹鶴酒造」の三男として誕生しました。幼少期から蔵の米の香りや酵母の発酵する匂いを嗅いで育った政孝は、醸造の基礎を肌感覚で身につけていきます。大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)の醸造科へ進学した彼は、そこで洋酒の可能性に魅せられ、卒業後の1916年(大正5年)、洋酒製造を手がけていた大阪の摂津酒造に入社しました。

    当時、日本で「ウイスキー」と呼ばれて流通していたものの正体は、輸入アルコールに砂糖や香料、色素を混ぜ合わせた粗悪な模造品(混和ウイスキー)に過ぎませんでした。摂津酒造の社長・阿部喜兵衛と常務・岩井常四郎は「日本人の手で本物のウイスキーを造りたい」という熱い志を抱き、24歳の若き竹鶴政孝に白羽の矢を立てます。こうして1918年(大正7年)、政孝は単身スコットランドへと旅立ちました。

    グラスゴー大学で応用化学を履修しながら、政孝は現場での実地研修を求めてスコットランド各地の蒸溜所を訪ね歩きます。しかし、東洋から来た素性の知れない青年に門戸を開く蒸溜所は簡単には見つかりませんでした。冷たい門前払いが続くなか、熱意を買って彼を受け入れたのが、スペイサイドのロングモーン蒸溜所と、キャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸溜所でした。

    政孝は作業着に身を包み、泥臭い労働に汗を流しながら、職人たちの手の動き、ポットスチルの角度、麦汁の発酵温度、ピートの燻煙時間に至るまで、徹底的に観察し尽くしました。そのすべてを細密なスケッチとともにペンで書き留めたのが、のちに日本のウイスキー産業のバイブルと呼ばれる2冊の「竹鶴ノート」です。1962年に英国のヒューム元首相が来日した際、「一人の青年が万年筆とノート2冊でスコッチの秘密を盗んでいった」とスピーチしたのは有名な逸話ですが、それはまさに政孝の超人的な観察眼と記録力の結晶でした。

    愛と覚悟の国際結婚|竹鶴リタが背負った孤独と生涯の献身

    竹 鶴 政孝の様子・注目ショット
    【写真】竹 鶴 政孝 近影・注目カット

    グラスゴーでの滞在中、政孝の運命を決定づけるもう一つの出会いがありました。下宿先の娘であり、のちに生涯の伴侶となるジェシー・ロベルタ・カウン、通称竹鶴リタとの出会いです。

    第一次世界大戦で婚約者を亡くし深い悲しみに暮れていたリタと、遠い異国の地で孤軍奮闘していた政孝。二人は急速に惹かれ合いますが、当時の社会状況において日本人と英国人の結婚は想像を絶する困難を極めました。カウン家からの猛反対はもちろん、日本国内の竹鶴家親族からも強い拒絶反応が示されます。しかし、二人の決意は揺るぎませんでした。1920年(大正9年)1月、登記所で二人だけの簡素な結婚式を挙げ、同年11月、リタは政孝とともに異国の地・日本へと渡航しました。

    日本に到着したリタを待っていたのは、言葉も通じず、生活習慣もまったく異なる環境での過酷な日々でした。しかしリタは弱音を吐くことなく、日本語を猛勉強し、大阪弁を操り、政孝を立てて日本の伝統的な妻として振る舞うよう努めました。英語教師やピアノの個人レッスンを行って家計を助け、政孝の研究を物心両面から支え続けます。

    太平洋戦争が勃発すると、リタの立場はさらに過酷なものへと追い込まれました。「敵性外国人」として近隣住民からスパイ容疑の陰口を叩かれ、特高警察の監視下に置かれるという屈辱と恐怖の日常。それでもリタは「私はマッサンの妻、日本人です」と毅然と言い放ち、日本の土になる覚悟を貫き通しました。政孝が妥協なきウイスキー造りに邁進できた背景には、常にリタという無条件の味方が存在していた事実は見逃せません。

    サントリー鳥井信治郎との決別に隠された真相|山崎から余市へ

    竹 鶴 政孝の報道・詳細資料
    【資料】竹 鶴 政孝 報道・メディア記録

    スコットランドから帰国した政孝を待っていたのは、残酷な現実でした。第一次世界大戦後の戦後恐慌により、派遣元であった摂津酒造は巨額の負債を抱え、ウイスキー製造計画そのものを断念せざるを得なくなったのです。夢を断たれ、浪人同然となった政孝に手を差し伸べたのが、当時「赤玉ポートワイン」のメガヒットで巨万の富を築いていた寿屋(現・サントリー)の創業者、鳥井信治郎でした。

    鳥井もまた本物の国産ウイスキー造りに執念を燃やしており、スコットランドから技術者を招聘しようと調査を進めていたところ、「本場の一流技術を習得して帰国した日本人がいる」という情報を掴みます。1923年(大正12年)、鳥井は政孝を破格の年俸4,000円(現在の価値で約数千万円規模)という大待遇で迎え入れ、10年契約を結びました。

    蒸溜所の建設地選定において、二人は早くも最初の意見衝突を経験します。政孝はスコットランドのハイランド地方に酷似した寒冷な北海道を強く推しましたが、鳥井は物流の利便性や見学者の集客、さらに良質な名水を重視し、京都と大阪の境に位置する山崎の地を選定しました。政孝は山崎工場の初代所長として設計から製造までを一手に担い、1929年(昭和4年)、ついに日本初の本格国産ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を世に送り出します。

    しかし、この白札の発売こそが、二人の決定的な決別の引き金となりました。白札は政孝が忠実に再現したスコッチ由来の強いピート香とスモーキーフレーバーを帯びていましたが、当時の日本人には「煙くさい」「薬品のようだ」と酷評され、商業的には手痛い大失敗を喫したのです。

    ここから二人のウイスキー哲学の溝は修復不能なまでに深まります。

    • 鳥井信治郎の思想:「売れへんかったら意味がない。日本人の繊細な味覚に合わせた、飲みやすいブレンドを追求すべきや」
    • 竹鶴政孝の思想:「本場スコッチの重厚な風味を薄めることは邪道。日本人の舌を本物の味へと育てていくことこそが造り手の使命だ」

    商才に長けたリアリストの鳥井と、愚直なまでに伝統を重んじる職人肌の政孝。二人の目指す方角は完全に交差していました。1934年(昭和9年)、10年間の雇用契約満了を迎えた政孝は、鳥井からの慰留を固辞し、サントリーを去る決断を下しました。二人の袂を分かつ選択は、喧嘩別れという単純な言葉では片付けられない、それぞれが信じるウイスキーの理想を追求するための宿命的な自立だったと言えます。

    【徹底比較】鳥井信治郎と竹鶴政孝|2人の巨人が残した足跡

    日本のウイスキー文化は、鳥井信治郎の卓越したマーケティング・ブレンド力と、竹鶴政孝の徹底したスコティッシュ・クラフトマンシップという、対極にある2つの車輪によって駆動してきました。両者のアプローチの違いを客観的データと事実から比較整理します。

    項目竹鶴政孝(ニッカウヰスキー)鳥井信治郎(サントリー)編集部の見解・評価
    原点・原風景広島の酒蔵出身/スコットランド直伝の技術大阪の薬種問屋丁稚出身/洋酒輸入販売の経験「技術至上主義」対「顧客受容性重視」という出自の差が反映。
    蒸溜所選定地北海道・余市(寒冷、ピート層、湿潤な気候)京都郊外・山崎(千利休ゆかりの名水、大消費地近接)理想の原酒環境を求めた北限と、流通と水質を両立させた山崎。
    蒸溜・製法思想石炭直火蒸留、ヘビーピート、伝統墨守スチーム間接加熱、多彩な原酒造り、ジャパニーズ最適化本場スコットランドでも希少となった石炭直火を今も守るニッカの独自性。
    代表的銘柄シングルモルト余市、竹鶴ピュアモルト、ブラックニッカ山崎、白州、響、角瓶力強くスモーキーなニッカに対し、繊細で華やかなサントリー。
    ビジネス展開リンゴ加工(大日本果汁)から堅実に立ち上げ赤玉ポートワインの豊富な資本力を原動力に積極投資泥臭い生存戦略を選んだ政孝と、資本のダイナミズムを活かした鳥井。

    大日本果汁からニッカへ|余市で始まった執念の逆転劇

    サントリーを退社した政孝が向かったのは、長年温め続けていた理想の地、北海道の余市蒸溜所でした。余市はスコットランド・ハイランド地方と緯度が近く、冷涼で湿潤な気候、豊富な雪解け水、ウイスキーの風味づけに不可欠なピート(泥炭)の埋蔵地であり、海岸から吹き込む潮風まで備えた、まさにウイスキー造りのための聖地でした。

    1934年(昭和9年)、加賀正太郎をはじめとする理解ある出資者たちを集め、政孝は「大日本果汁株式会社」を設立します。なぜウイスキー会社なのに「果汁」だったのか。そこには製造業としての過酷な経営計算がありました。モルトウイスキーは原酒を樽に詰めてから出荷できるようになるまで、最低でも3年から5年の熟成期間を要します。その間、売上は完全にゼロであり、何も生産しなければ即座に倒産してしまいます。

    そこで政孝は、余市特産のリンゴに着目しました。果汁100%の無添加リンゴジュースを製造・販売することで日々の運転資金を稼ぎ、ウイスキーが熟成する時間を稼ぐという戦略に出たのです。しかし、本物志向の強い政孝が作った混じり気のないリンゴジュースは、混濁しやすく、当時の消費者にとっては高価だったため、大量の返品の山を築く苦難に直面します。それでもリンゴブランデーやアップルワインへと加工の幅を広げ、社員とともに歯を食いしばって耐え忍びました。

    そして1940年(昭和15年)、仕込みから数年の熟成を経て、ついに大日本果汁から第1号となるウイスキーが誕生します。ブランド名は、社名の「大日(ニッ)本果(カ)汁」を縮めて「ニッカウヰスキー」と名付けられました。政孝が46歳、スコットランドへ旅立ってから実に22年の歳月が流れていました。

    余市蒸溜所における最大の特長は、現在も頑なに続けられている「石炭直火蒸留」です。現代のウイスキー蒸溜所では、温度管理が容易なスチーム加熱が主流ですが、余市では熟練の職人がスコップで炉に石炭を投げ込み、800度から1000度という超高温でポットスチルを直に熱します。この伝統的な荒技によって原酒に微量の「おこげ」がつき、力強く香ばしい、唯一無二のヘビーピートモルトが生まれるのです。本場スコットランドですら効率化のために捨て去った伝統技法を、竹鶴政孝は余市の地で愚直に守り抜きました。

    竹鶴政孝の名言と家系図|受け継がれる「日本のウイスキーの父」のDNA

    竹鶴政孝が残した言葉には、小手先のテクニックや短期的な利益追求を痛烈に戒める哲学が凝縮されています。ウイスキー業界のみならず、現代のビジネスパーソンやものづくりに携わる人々にとっても胸に刺さるものばかりです。

    「ウイスキー造りに秘訣などない。ただ自然の恵みと、時間を信じることだ」
    「日本人に本物の味を教えたい。薄めて売りやすいものを作るなら、私がやる必要はない」
    「品質本位。ウイスキーはごまかしがきかん。職人の魂がそのまま味に出る」

    政孝の死後、そのクラフトマンシップのDNAは血縁と志を通じて次の世代へと受け継がれました。政孝とリタの間には実子がいなかったため、政孝の甥である竹鶴威(たけつる たけし)が養子として迎え入れられました。威氏もまた北海道大学で応用化学を修めたのちニッカウヰスキーに入社し、のちに代表取締役社長に就任。仙台・宮城峡蒸溜所の建設を指揮し、余市とは異なる華やかで軽快なモルト原酒を生み出すことで、ニッカのブレンデッド技術を世界基準へと押し上げる偉業を果たしました。

    さらに威氏の子である竹鶴孝太郎氏など、一族はウイスキー文化の語り部として、政孝とリタが遺した理念を現代へ発信し続けています。世界的な酒類コンペティション(WWAなど)で「シングルモルト余市」や「竹鶴ピュアモルト」が世界最高賞を幾度も受賞している現実は、政孝が信じた「本物」が100年の時を超えて正しさを証明した何よりの証拠です。

    一般に知られていない盲点とネットの誤解|「サントリーと犬猿の仲」の真相

    インターネット上や一部の愛好家の間では、「竹鶴政孝と鳥井信治郎は喧嘩別れし、ニッカとサントリーは長年犬猿の仲だった」という対立構図がドラマチックに語られがちです。しかし、一次資料や当時の書簡、関係者の証言を紐解くと、この俗説は明らかな誤解であることが分かります。

    たしかにウイスキーの風味設計や経営方針においては激しい議論を交わした二人ですが、人間としての敬意は生涯失われませんでした。鳥井信治郎は、政孝が余市で独立した後も彼を陰ながら気遣い、サントリーの幹部に対して「ウイスキー造りに関しては竹鶴の言う通りにしとけば間違いはない」と漏らしていた記録が残っています。また、鳥井の息子でありサントリー第2代社長となった佐治敬三氏も、竹鶴政孝を「叔父のような存在」として深く慕っていました。

    一方の政孝も、鳥井の類まれなる商才と、何より名もなき自分を破格の待遇で重用してくれた大恩を決して忘れませんでした。後年の自著やインタビューでも鳥井に対する感謝の言葉を繰り返しています。二人は単なる商売敵ではなく、「日本に本物のウイスキー文化を根付かせる」という壮大な共通目標に向かって、異なるルートから山頂を目指した戦友だったのです。

    【プロの結論】ニッカとサントリー、あなたに向いている銘柄の判断基準

    歴史と製法の違いを踏まえ、現代の愛好家がどのような基準で両者のウイスキーを選ぶべきか、判断のポイントを整理します。

    • ニッカ(竹鶴哲学)が向いている人:
      • スコッチ本来のスモーキーなピート香、潮風のニュアンス、重厚で無骨なコクを好む人。
      • ロックやストレートで、樽熟成の力強さと深い余韻をじっくりと対話しながら楽しみたい人。
      • 「余市」「竹鶴ピュアモルト」「フロム・ザ・バレル」など、アルコール度数が高く飲みごたえのある原酒に惹かれる人。
    • サントリー(鳥井哲学)が向いている人:
      • ミズナラ樽由来の白檀(ビャクダン)やオリエンタルな香り、フルーティーで華やかなアロマを好む人。
      • ハイボールや水割りなど、繊細な和食の味を邪魔せず食中酒として滑らかに愉しみたい人。
      • 「山崎」「白州」「響」など、完璧に計算されたブレンディングの調和とエレガントさを重視する人。

    【竹鶴政孝】に関するよくある質問(FAQ)

    Q1:竹鶴政孝の朝ドラ『マッサン』での描かれ方は史実通りですか?
    A1:大筋の人生の歩み(スコットランド留学、リタとの結婚、山崎蒸溜所での葛藤、余市での創業)は史実に極めて忠実です。ただしドラマ上の演出として、登場人物の名前(竹鶴政孝→亀山政春、リタ→エリー、鳥井信治郎→鴨居欣次郎)が変更されているほか、家族間の対立や日々のコミカルなエピソードはテレビ向けに脚色されています。特に特高警察によるリタへの監視や戦争末期の苦境は、史実のほうがはるかに過酷で張り詰めたものでした。

    Q2:竹鶴政孝がサントリーを辞めた本当の理由は金銭トラブルですか?
    A2:金銭トラブルではありません。鳥井信治郎とは10年という明確な雇用契約を結んでおり、契約満了に伴う円満な退職でした。最大の理由は、自身が理想とするスコッチ本来の重厚なウイスキーを造るため、北海道という気候風土の地で一切の妥協を排した蒸溜所をゼロから立ち上げたいという、政孝の技術者としての純粋な執念によるものです。

    Q3:なぜニッカウヰスキーの表記は「ウイスキー」ではなく「ウヰスキー」なのですか?
    A3:竹鶴政孝の強いこだわりによるものです。「ヰ」の文字は「井戸」の「井」に由来しており、「ウイスキー造りには清らかな水が命である」という意味が込められています。また、当時の表記としてスコッチの発音に近いニュアンスを大切にしたことや、看板・ラベルとして視覚的な風格を持たせる意図もありました。

    まとめ:妥協なき職人魂が遺したジャパニーズウイスキーの現在地

    竹鶴政孝の生涯は、合理性と効率が叫ばれる現代ビジネスにおいて、私たちが忘れてはならない極めて重要な示唆を与えてくれます。目先の利益にとらわれて大衆に迎合するのではなく、己が信じた世界基準の「本物」を徹底的に追求し、それを理解してくれる市場を長い年月をかけて自らの手で育て上げる。その気の遠くなるような職人の狂気こそが、今日世界中で熱狂的な支持を集めるジャパニーズウイスキーの礎となりました。

    北海道・余市の厳しい寒風に吹かれながら、今も赤々と燃える炉に石炭を投げ入れ続ける職人たちの姿のなかに、竹鶴政孝の魂は確かに生きています。今宵グラスを傾けるウイスキーの琥珀色の中に、日本酒の蔵からスコットランドへ渡り、北の大地に理想郷を打ち立てた男と、その夢を信じ抜いた一人のスコットランド女性の壮大な軌跡を感じ取ってみてください。 (出典: 竹 鶴 政孝(Yahoo!ニュース))

    斉藤 桃子 (Momoka Saito)
    斉藤 桃子 (Momoka Saito) トレンドリサーチャー

    テクノロジーやライフスタイル領域を中心に執筆活動を行っています。趣味は写真撮影と旅行です。